坂本龍馬


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坂本龍馬
今から約150年前、幕末。鎖国を続けていた日本が欧米列強の1853年の黒船来航を機に世界との文明・経済の格差に気づき日本の未来、あるべき姿について命を懸けて憂慮し、奔走した人々がいました。
その頃日本は、開国派と攘夷派に分かれ、内紛が絶えませんでした。
しかし、いがみ合い、殺しあうことでは何も変わらないことを説き、日本を1つにまとめ上げようと尽力した人物がいました。坂本龍馬です。
犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩に同盟を結ばせ(1866年3月7日 薩長同盟)、265年続いた徳川幕府による独裁政権を、無血革命という世界的にみても例の少ない方法で朝廷に返上させました(1867年11月9日 大政奉還)。
坂本龍馬は土佐藩の脱藩浪士でありながら、当時の日本を代表する有力者、しいては将軍や朝廷にまで影響を与えたのです。 そして朝廷下で民主主義を取り入れた新政権を樹立しようとしましたが ― 。
世界を駆け巡るという夢半ばで京の都で1867年12月10日、命を絶たれた龍馬。32歳という若さでした。
しかし、その夢は今、坂本家本家の子孫により再興され「日本酒 極印龍馬」として海を渡ることになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

坂本龍馬 年表

 

1835年(天保6年) 土佐藩郷士坂本家の次男として高知城下に生まれる。

1853年(嘉永6年) 剣術修行のため江戸へ出立。

1861年(文久元年) 土佐勤王党結成、加盟。

1862年(文久2年) 土佐を脱藩、幕臣・勝海舟に入門

1863年(文久3年) 2月23日〜4月4日、勝海舟の長崎出張に同行し、長崎滞在。

1865年(慶応元年) 夏頃、長崎において、亀山社中結成。
          7月〜10月、薩摩藩の名義でイギリス商人グラバーから、小銃・艦船を購入し、
                                    長州藩へ輸送。
7月、小銃購入。10月、蒸気船ユニオン号購入。

1866年(慶応2年) 1月21日(もしくは22日)、京都での薩長同盟締結に立ち会う。
1月23日 京都伏見・寺田屋で幕吏に襲撃され負傷する。
近藤長次郎、長崎・小曽根屋敷で自刃。
3月8日  大阪から薩摩帆船三邦丸に乗り、鹿児島へ向かう途中、長崎に立ち寄る。
5月2日  社中の乗った、ワイルウェフ号が五島沖で遭難し、黒木小太郎・池内蔵太らが死亡。
6月上旬 桜島丸(ユニオン号・乙丑丸)に乗船。鹿児島を出発し下関に行く途中、長崎に立ち寄り、
妻、お龍を小曽根家に預ける。
6月17日 下関での長幕海戦に参加。
7月下旬 木戸孝允・三吉慎蔵あてに手紙を書き、三吉に社中の苦境を訴える。
伊予大洲藩船いろは丸に社中の菅野覚兵ら乗り組む。
8月15日 長崎に戻り、小曽根屋敷を定宿とする。
10月28日〜12月4日 大極丸を購入(12月下旬頃、下関に行き、馬関商社設立を協議したとも)
12月4日 小曽根屋敷で故郷の家族あてに長い手紙を書く。

1867年(慶応3年)  1月上旬〜2月上旬 下関から長崎に戻り、土佐藩参政・後藤象二郎と会談(清風亭会談)
お龍を伴い、2月上旬に長崎を発し、2月10日に下関着。お龍を伊藤家に預ける。
4月上旬 海援隊発足。下関から長崎に来て、海援隊長に任命される。

4月19日 いろは丸讃岐沖を航海中、紀州藩船明光丸と衝突。沈没する。
5月10日〜6月9日 下関から長崎到着、滞在。長崎にて紀州藩といろは丸賠償交渉を行う。
5月29日 賠償問題解決
6月9日 後藤象二郎らと土佐藩船夕顔丸に乗船して上京する。
7月6日 イギリス軍艦イカルス号水夫が殺害される。
8月15日〜9月18日 京都から土佐を経由して長崎に到着、滞在。運上所等で長崎奉行所からイカルス号事件の取り調べを受ける。
9月10日 お構いなしの裁定がくだる。
9月14日 オランダ商人ハルトマンから小銃1300挺を購入する。
9月18日 芸州藩船震天丸に銃を積み込み、長崎出港。
10月   大政奉還
11月15日 京都河原町・近江屋において刺客に襲われ死去。
11月27日 龍馬死去の知らせが長崎に届く。

1868年(慶応4年) 1月14日 長崎奉行・河津伊豆守長崎から脱走。海援隊長崎奉行所西役所を占拠。
海援隊士、沢村惣之丞自刃。
閏4月27日    海援隊解散。

 

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